シクラメンの季節の頃・・・ [徒然]
花屋の店先にシクラメンの鉢が目立つ季節になりました。
この花を見ると思わず布施明が唄った「シクラメンのかほり」を口ずさんでしまいます。
シクラメンのかほり 作詞 作曲 小椋佳 唄 布施明
真綿色した シクラメンほど
清しいものはない
出逢いの時の 君のようです
ためらいがちに かけた言葉に
驚いたように ふりむく君に
季節が頬をそめて 過ぎてゆきました
うす紅色の シクラメンほど
まぶしいものはない
恋する時の 君のようです
木もれ陽あびた 君を抱けば
淋しささえも おきざりにして
愛がいつのまにか 歩き始めました
疲れを知らない 子供のように
時が二人を 追い越してゆく
呼び戻すことが できるなら
僕は何を 惜しむだろう
うす紫の シクラメンほど
淋しいものはない
後ろ姿の 君のようです
暮れ惑う街の 別れ道には
シクラメンのかほり むなしくゆれて
季節が知らん顔して 過ぎてゆきました
疲れを知らない 子供のように
時が二人を 追い越してゆく
呼び戻すことが できるなら
僕は何を 惜しむだろう
昭和50年(1975年)布施明が唄って大ヒットしました。
布施明の澄んだメロディと少し感傷的な詩が好かれたのでしょう。
作者の小椋佳さんが後々語っていますが・・・
詩は北原白秋の詩集から好きな言葉の寄せ集めで文体はエルビス・プレスリーの
「マリー・イン・ザ・モーニング」の
「朝見るマリーほどすてきなものはない」
「昼見るマリーほどすてきなものはない」
「夜見るマリーは、最高だ!」
からの引用だったそうです。
曲のタイトルと詩の中の一ヶ所に「かほり」と言う言葉が使われています。
「かほり」は花の香りなら「かおり」が正しく「かほり」は間違いと国語学者などからの指摘がありましたが
奥さんの名前が「佳穂里」であることが世に知られると自然と立ち消えました。
「かほり」は花の香りではなく奥さんの名前で「シクラメンのような君」を意味する説が有力になりました。
改めて歌詞を読み返してみると納得です。
ペンネームの小椋佳は東大の学生の頃、司法試験の勉強のため檜原村の学生村にひと夏籠りました。
その学生村の殆んどが小椋姓であったことからと奥さんの名前の1字をとっています。
作品の中に奥さんの名前が入っても不思議ではありません。
シクラメンは冬の花と思っていましたが俳句の季語は春になっているのは意外でした。